都市伝説【世界の歴史】

【都市伝説】謎に包まれたロシアの古代遺跡!ポル=バジンとは?



100年以上経っても詳しいことがわからない遺跡があることをご存知だろうか?

その遺跡があるのはロシアの南部、モンゴルとの国境付近の山間にあるテレホリ湖の小さな島いっぱいに作られたポル=バジンです。

今回はそのポル=バジンについて紹介していきます。

ポル・バジンとは

 

ポル=バジンとは、トゥバ語で「粘土の家」という意味で、まるでロールプレイングゲームで勇者が訪れる町のような外観をしている。

この遺跡が発見されたのは1891年であるが、100年以上たった今でも、どういう町だったか詳しいことはあまりわかっていない。

わかっていることと言えば研究調査の結果、8世紀にウイグル帝国の首都にあった王宮に似ていることなどから、ウイグルの王宮か要塞であった可能性が高いということくらいである。

ウイグルは4世紀から13世紀にかけて中央アジアを席巻した強大な国家だった。

このような王宮や城塞都市をあちこちに持っていたとしてもおかしくない。

しかし何のために、なぜ湖の中に作ったのか、またなぜ放棄したのかはまだ謎のままである。

周囲の城壁は215×162mの長方形。建物はありませんが中央に広い区画があり、そのまわりをぐるりとコの字を描くように小さな区画が配置されている。

中国の唐王朝の都を模しているとも見られていますが、一体どんな建物が建っていたのだろうか。

そもそも、この町に人が暮らしていたかどうか、そのあたりもまだよくわかっていないのである。



わからないことが多いとされるポル=バジンだが、実は要塞だったのではないかと考えられていたことがある。

1957年から1963年にかけてロシアの考古学者S.I. Vainshteinはポル=バジンの調査を行い、唐王朝の建築様式との類似を指摘した。

また碑文から回鶻の第2代ハンであった葛勒可汗が750年に作った要塞であるとの仮説を立てた、その後に大規模な調査が行われたのは2007年になってからのことである。

ロシア科学アカデミーとロシア国立東洋美術館、そしてモスクワ大学が合同で行い、粘土板やしっくいの壁に描かれた色褪せた壁画、巨大な門や燃えた木材の破片などを発見したが、ポル=バジンが建設された理由を示す物的証拠は発見されなかった。

また、大きな謎として、このポル=バジンには人が居住していた形跡が発見されなかったのである。

要塞であれば必ず守備のための軍隊が駐留するため、なんらかの居住の形跡が見つからなければ説明が付かない。

謎を解く手がかりとして、調査チームが放射性炭素による年代測定を行ったところ、ポル=バジンが建設されたのは770年から790年の間とされており、仮説の750年からは20~40年遅いことが判明した。

葛勒可汗は759年に死去していることから、彼の息子である牟羽可汗(ぼううかがん)が建設したとの仮説が立てられた。

牟羽可汗は国教としてマニ教を導入したことでも知られており、ポル=バジンはマニ教寺院として建設されたのではないかと考えられた。

しかし牟羽可汗は779年に殺害されており、その際にマニ教の弾圧も発生。これによって寺院が放棄され、結局使われることがなかったと考えれば、人が居住し、生活していた痕跡が見つからないことにも説明が付く。

ただし、どれも現時点では仮説の域を出ていない。

 

滅亡の危機

 

そんな地の果てに静かに佇んでいるポル=バジンであるが、先行きは好ましいものではない。

ポル=バジンは現在滅亡の危機に瀕していると言われている。

地球温暖化に伴う気温の上昇で土台となっている永久凍土が溶けて緩みつつあり、湖の水位も上昇している。

一説には永久凍土の溶解によって遺跡が崩壊するのは80年のうちに発生するとのこと。

湖の水位が上がり永久凍土層が溶けると、ポル=バンジは湖に沈んでしまうだろう。

また、ポル=バジンは過去に起きた地震による影響でも損傷を受けていて地盤が脆くなっている。

今までで2回の地震の被害にあっており、1回目は建設中の8世紀に起きたものであるが、2回目は破滅的な地震で建物を壊したほどだった。

多くの人々が謎を解明しようと活動している一方で、人類の起こした環境変化によってポル=バジンの謎が永久に謎のままに終わってしまう可能性もあるということなのだ。

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今でも多くの謎に包まれているポル=バジンだが、歴史的価値は非常に高いとされている。

特にウイグルにとってのポル=バジンは文化的アイデンティティーの本質とも考えられる。

このような貴重な町がもっている謎についてこれからも目が離せない。