日本の初代総理大臣は誰だかご存知でしょうか?
そう。伊藤博文である。
教科書などにも出てくる有名人だからご存知の人も多いと思う。
今回はそんな日本の歴史に名を残す初代総理大臣、伊藤博文が「大の女好き」という都市伝説を紹介していこうと思う。
留学中に女遊び
伊藤博文が長州藩士だった22歳の頃の話。
藩からの命令で伊藤博文はイギリスへ留学した。
その留学の目的はイギリスに関する人情風俗や文明の程度を調査することで、伊藤博文はほかの留学生にくらべて資金を多く与えられたといわれている。
しかし、伊藤博文はその資金をもって現地の色町(風俗街のようなもの)に入り浸っていたというのだ。
攘夷運動の志士たちのあいだでは女遊びがさかんだったということだが、伊藤博文の行動はその中でも群を抜いているものだったようだ。
その異常さは留学生のあいだでも問題になるほどで、彼を帰国させるべきであるという声が上がるほどだった。
最初の妻と別れて芸者と結婚
23歳の伊藤博文は長州藩と西洋列強が衝突したとの知らせを聞き、留学先から急いで帰国した。
そこで伊藤博文は開国論者だったため、攘夷派から命を狙われるようになってしまう。
その際に伊藤博文をかくまったと言われているのが、下関の芸者のお梅という女性である。伊藤博文には親が決めた妻・すみ(友人の妹でもある)という女性がいたのだが、かくまってくれた情もあったのかお梅のもとへ頻繁に通うようになったのだ。
お梅が伊藤博文の子を身ごもったことで、伊藤はすみと別れお梅と結婚することを決めた。
伊藤博文は親が決めた妻であり友人の妹を捨てて芸者を妻にしてしまったわけである。
兵庫県令時代に料理屋の娘・お仲と関係
伊藤博文は27歳で兵庫県知事に就任した。
そのとき関係を持ったのが、福原遊郭で料理屋兼宿泊業を営む千崎弥五平の娘・お仲。
伊藤博文は頻繁に千崎屋に通うようになったのだが、その行動は妻のお梅にも気づかれてしまう。妻のお梅に怒られ、伊藤博文はしばらくお仲との関係を絶ちますが、やがてまたお仲のもとに通うようになった。
これまでの伊藤博文の女遊びに寛大だったお梅だが、今回の件は見過ごすことができなかった。
お梅は井上馨に頼みこみ、お仲を兵庫県のとある巡査と結婚させることによって、伊藤博文とお仲の関係を切らせた。この時はさすがの伊藤博文も諦めるしかなかったようだ。
舞踏会で華族の令嬢と関係をもつ
伊藤博文が首相だった46歳のころ 首相官邸で仮装舞踏会が開かれた。
当時は欧化政策が推進されていて、欧米風の社交施設であった鹿鳴館では外国要人の接待や舞踏会が開かれ、皇族や上流婦人の交流が盛んに行われた。
そんななか「鹿鳴館の華」と呼ばれていたのが、岩倉具視の三女で、戸田氏共伯爵の夫人の極子だった。
伊藤博文は仮装舞踏会で、この生粋の華族といってよい極子にも関係を迫っている。
お互いに不倫関係となりながらもその距離は縮まっていき、伊藤博文と極子は関係をもつことになった。
そして関係をもったという噂がマスコミに大きく取り上げられ、伊藤博文は首相でありながらスキャンダルに巻き込まれてしまう。
日清戦争の最中にも芸者遊び
伊藤博文が53歳の頃、日清戦争が起きた。
当時の伊藤博文は2度目の首相を務めていて戦争指導のため広島に入った。
そこでも伊藤は芸者遊びをしていたと言われている。
日本で最初の近代戦争となった日清戦争。
この戦争において日本は挙国一致で清に立ち向かっていったのだが、そんな大切な時でも伊藤博文は女遊びをしていた。
ちなみに、今は広島県の有名銘菓であるもみじ饅頭も彼の女好きから生まれたそう。
伊藤博文が宮島を訪れた際、茶屋で働いていた女性の手を見て「綺麗な手だ、焼いて食べたら美味しそうだ」と言ったとのこと。
これをヒントにして茶屋の人が作ったのが、今のもみじ饅頭に繋がっているのだそう。
名古屋の芸者・桃吉と成田山参詣
55歳で首相を辞任した伊藤博文は翌年、貴族院議員・瀧兵左衛門の名古屋の別荘で過ごしていた際に芸者・桃吉と出会った。
伊藤博文は桃吉にほれこみ、議会開会中でも頻繁に桃吉と会った。
次第に仲を深めていき57歳の頃には桃吉の願いを聞き入れて、ともに千葉県の成田山参詣に出かけている。
首相を務めるほどの政治家が公然と芸者を連れて出かけることは、前代未聞のことだった。
まとめ
いかがだったでしょうか?
日本の初代総理大臣がこんな女好きだったとは…
しかし一方でこんな話もある。
68歳の頃に伊藤博文は暗殺されてしまうのだが、その後比谷公園で行われた国葬には数えきれないほどの民衆が詰めかけたそうだ。
女好きという噂を当時の民衆がどのくらい知っていたかはわからないが、このことから伊藤博文は国民から慕われていた総理大臣だったということがわかる。
あなたはこのような総理大臣をどのように思うでしょうか?