明智光秀と言えば、戦国時代から安土桃山時代に活躍し、本能寺の変を起こした張本人であり、織田信長を自害に追いやってからわずか13日で殺害・または自害により天下統一に終わりを告げた「三日天下」で有名な戦国武将である。
天海は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した天台宗の僧侶であり、南光坊天海とも呼ばれる人物。
実はこの二人が同一人物だという都市伝説が存在するのだ。
今回は「明智光秀=南光坊天海説」について紹介したいと思う。
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明智光秀とは
明智氏に生まれた光秀だが、父親は明智光綱・明智光国・明智頼明など様々な説があり、名前すら伝わらない程の身分の低い人物だったとも言われている。
出身地に関しては岐阜県という説が有力だが、滋賀県だという説もあり、この他に6箇所程、出生地とされる土地がある。
このように光秀の出生に関しては謎が多く、不詳とされている。
青年期は斎藤道三という岐阜県の戦国武将の元に仕えていたが、その後浪人となって色々な場所を転々としながら、和歌や鉄砲などの技術や教養を身に着けたと言われている。
その後、織田信長の家臣となる。
比叡山延暦寺の焼き討ち・長篠の戦などで名を挙げた光秀は、信長の家臣としても地位を上げていき、政治の面でも活躍する程の権力を持つまでになった。
そして1582年、本能寺の変を起こして主君である織田信長を本能寺で襲い、自害に追い込み、悲願であった天下統一を果たした。
しかしわずか13日後、同じく信長の家臣であった豊臣秀吉との山崎の戦いで破れた。
その後、落ち武者狩りで殺害・または致命傷を受けて自害したとも言われている。
南光坊天海とは
光秀と同様に天海も比叡山出身であること以外、生涯の前半に関しては謎に包まれている。
そして平均寿命が40歳程と言われている時代に、100歳を超えるほどの長寿だった。
若くして出家をしたのち、様々な寺院を渡り、天台宗を学びながら家康の元に仕えるようになった天海は、陰陽道や風水の知識も豊富だったことから、江戸城の建設では風水の知識を役立てて最もふさわしい立地で建設するように尽力を尽くした。
徳川家には家康・秀忠・家光の三代にわたり仕え、政権にも大きな影響を与えたという。
明智光秀と天海が同一人物だとされる理由
日光東照宮に明智家の家紋
徳川家康を祀っていることで知られる日光東照宮。
徳川家の家紋は葵であるが、東照宮にある像に明智家の家紋である桔梗が使用されている。
将軍の名前
天海は徳川の将軍の名付けもしており、第2代将軍の「秀忠」は「光秀」の「秀」を一文字、第3第将軍の「家光」は「光秀」の「光」を一文字取った。
光秀の家臣の娘
天下統一を果たした光秀の家臣であった斎藤利光の娘「お福」は、天海の希望により、家光の乳母となった。
お福が江戸城で天海と顔を合わせると「お久しぶりでございます。」と挨拶をしたという。
日光の地名
日光東照宮がある日光には「明智平」と呼ばれる土地があり、この名前を付けたのが天海である。
また「明智平」と名付けた理由に対して天海が「明智の名を残すためだ。」と言ったという。
明智光秀の「明智」という意味にも取れるが、岐阜県にも「明智」という土地が存在し、この土地の名を残すために名付けた可能性もある。
しかし、天海と接点がない「明智光秀の“明智”」、「岐阜県の土地名である“明智”」どちらの「明智」も、日光に名を残そうとする意味が不明である。
比叡山に残された石碑
比叡山には数々の戦国武将たちが残した石碑がある。
この石碑の中には「光秀」と書かれた石碑があり、日付は慶長20年となっている。
光秀が死亡したのは天正10年なので、その後この石碑が建てられたことになる。
二人の筆跡
2000年にとあるテレビ番組で、光秀と天海が書いた手紙の筆跡を鑑定する企画が行われた。
鑑定結果は「近親者である可能性が高い。」というもの。
「いくつかの文字の筆跡が似ており、長く一緒に生活をしていないと、こうも筆跡が似ることはない。」と分析されており、同一人物の説が更に有力となった。
関ケ原の戦い
関ヶ原の戦いの様子が描かれている「関ケ原合戦図屏風」には徳川家の陣に僧侶である天海の姿がある。
また、大阪城の天守閣には関ヶ原の戦いで天海が着用したとされる鎧が残っている。
喜多院の鉄砲
喜多院には天海の遺品として鉄砲が残されている。僧侶で鉄砲が得意だったとは意外であるが、光秀は鉄砲の名手だった。
初対面時の二人の反応
天海と家康が初めて会った時、二人は意気投合し、会話を聞かれないように人を遠ざけて楽しそうに話していた。
そもそも家康は話好きではなく、その様子を見ていた人達は「初対面の人間と、あれ程仲良さげにするとは何事だ。」と驚いたという。
家康は明智光秀を崇拝しており、天海が光秀だったと知った家康が憧れの人物に会えて気分が高まっていた可能性もある。
まとめ
いかがだっただろうか?
ここまで根拠があると、山崎の戦いに敗れ、落ち武者となった後、僧侶・天海として生きた光秀が、100年もの時を生きて家康の元で活躍していた可能性は大いにあるのではないだろうか。
これから更に色々な根拠が見つかれば、光秀の「主君を裏切り三日天下しか取れなかった哀れな武将」という汚名を返上できる日が近いかもしれない。